由緒沿革

  すなわち、創建39年後に類焼し、浅草三嶋町に遷(ウツ)されていましたが、その12年後の延享元年4月15日、元地である藏前(八幡町)に還幸しました。当時は神仏習合思想に基づいて、全国の主要な神社には付属して別当寺が建立されていました。そして、当社石清水八幡宮の別当寺としては、雄徳山大護院(オトコヤマダイゴイン=新義真言宗)が営まれ、江戸の「切絵図」にも見られます。
 正式な社号は
『石清水八幡宮』ですが、一般には『藏前八幡』(クラマエハチマン)または『東石清水宮』(ヒガシイワシミズグウ)と唱えられ、庶民の崇敬者がはなはだ多く関東地方における名社の一つに数えられました。
 また、天保12年(1841)12月には、日本橋の
「成田不動」(成田山御旅宿=ナリタサンオタビ)が、幕府の方針に基づく寺社御奉行松平伊賀守忠優(マツダイライガノカミタダヤス)の達(タッシ)を受けて、当社境内に遷されました。
 幕末の安政2年(1855)10月2日、江戸を襲った所謂「安政の大地震」では、儒学者藤田東湖を含む1万余人もの犠牲者を見てしまいましたが、幕府は安政4年7月、当社境内に高さ1丈5尺の
「宝塔」1基(大施餓鬼塔=オオセガキトウ)を建立し、その10月には開眼供養を行わしめました。
 明治に入ると、その3月に
『神仏分離令』が布告され、別当寺であった雄徳山大護院は廃寺(廃絶)となりました。そして、成田不動は、明治2年深川に遷され、大施餓鬼塔も、同3年練馬の東高野山(ヒガシコウヤサン)に移されました。
 明治6年8月5日、郷社に列格し、同11年11月、社号をそれまでの『石清水八幡宮』から「石清水神社」と改称、さらに同19年4月、再び『石清水八幡 宮』と改称しました。其の後、大正12年9月の関東大震災および昭和20年3月の戦災により社殿を焼失、昭和22年9月、隣接の稲荷神社と相殿・北野天満 宮とを合併合祀し、同26年3月、
社号を『藏前神社』と改称、平成7年10月、創建当初から境内神社として鎮座の『鹽竈神社』(陸奥國のち陸前國宮城郡鎮座鹽竈神社遥拝殿)を合祀して現在に至っています。
 また、当社は相撲との深い関係があります。江戸時代のことですが、当社境内で勧進大相撲が開催されました。その回数は宝暦7年(1757)10月を始めとして、安永・天明・寛政・享和・文化・文政と約70年の間に23回にも及び、その
3大拠点の一つでした。
 とくに、天明年間には、大関
谷風や関脇小野川が、寛政年間には、大関雷電な どの名力士も当社境内を舞台に活躍していました。当社で開催された本場所では幾多の名勝負が見られましたが、なかでも、天明2年(1782)2月場所7日 目、安永7年(1778)以来、実に63連勝の谷風が新進小野川に「渡し込み」で敗れた一番は江戸中大騒ぎとなりました。
 
現在の『縦番付』は宝暦7年10月、当社で開催された本場所から始められたものです。公益財団法人日本相撲協会では本興行をもって、従来、京・大坂に従属した江戸相撲の独立形態とみなしています。
そして、当社で開催された宝暦11年(1761)10月場所より、従来の勧進相撲が
勧進大相撲と なり、公益財団法人日本相撲協会の直属機関でもある相撲博物館には、一部の勝負付けは欠落してはおりますが、当場所以来の『殆どの勝負付け』が現存・所蔵され ています。このように当社の境内は相撲熱で大いに賑わったものであり、明治時代には花相撲が行われたりもしていました。
 このような史実に基づいて、
財団法人大日本相撲協会(現・公益財団法人日本相撲協会)から現存の社号標や石玉垣が奉納されています。
 
尚、文化年間後期から文政年間にかけて素人(
しろうと)の力持(ちからもち)を称える文化がありました。当社でも力持の技芸を披露する神事が奉納されました。分けても、その絶頂期を迎えた文政7年(1824)の春に奉納された力持は浮世絵師歌川國安の錦絵にも描かれています。それが「文政七年之春 御前八幡宮ニ於而 奉納力持」(ぶんせいしちねんのはるおくらまえはちまんぐうにおいてほうのうちからもち)であります。
 更に、当社は古典落語「元犬」
(もといぬ)や「阿武松」(おうのまつ)の舞台ともなっており、「元犬」像が落語愛好家によって奉納建立されています。

石清水八幡宮。御朱印社領200石。当社、石清水八幡宮境内、拝領の儀は 元禄6年5月27日、 高野山興山寺上り屋敷拝領つかまつり、同年8月、八幡宮社頭建立の節、御金子300両拝領つかまつり、諸堂建立つかまつり候。其の 節、境内坪数2,271坪6合拝領つかまつり候。
其の後、享保17子年3月28日類焼つかまつり候に付、替地として、元坪の通り、浅草三嶋町に遷し置かれ候ところ、延享元子年3月20日、寺社御奉行大岡 越前守忠相殿、三嶋町の儀、御祈願所に不相応にして、別けても、神前の向、宜しからず候に付、此の度、御上意を以て元地へ引き移し候よう仰せ付けられ候 旨、申し渡され候。

当社は、徳川第5代将軍綱吉公が元禄6年(1693)8月5日、山城國(ヤマシロノクニ=京都男山(オトコヤマ)の石清水八幡宮(イワシミズハチマングウ)を当地に勧請(カンジョウ)したのが始まりです。
 以来、
江戸城鬼門除の守護神ならびに徳川将軍家祈願所の1社として篤(アツ)く尊崇せられ、御朱印社領200石を寄進せられました。文政年間(1818~1830)の『御府内備考続編』(ゴフナイビコウゾクヘン)ならびに『寺社書上』(ジシャカキアゲ)には次のように記されています。 




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御祭神 倉稲魂命

御神徳 商売繁昌、五穀豊穣、家内安全

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